豊田佐吉物語 障子を開けてみよ
外は広いぞ

豊田佐吉物語

世の中に役立つことをしたい

当社の社祖 豊田佐吉(とよださきち)は、1867年(慶応3年)、遠江国敷知郡山口村(現在の静岡県湖西市)に父伊吉、母ゑい(えい)の長男として生まれた。父伊吉は、農業の傍ら、生活のために大工として働き、腕のいい職人として信頼を集めていた。

佐吉は小学校を卒業するころから、父の大工仕事を手伝うようになった。

佐吉が生まれ育った時代は幕末から明治初期の動乱期。村全体が困窮を極めていた。14、5歳の頃から佐吉は次第に「なんとか人のために役立ちたい」、「国家のためにつくしたい」と考えるようになっていった。

大工仕事がない日には新聞や雑誌を読みあさり、村の青年たちと夜学会を開いて独学で勉強を進めていった。しかし、気ばかり焦るのみで「何をすればいいのか」ということには考えがまとまらなかった。

復元された
佐吉の生家

1885年(明治18年)、18歳になった佐吉は、国が新しい法律を発布したことを知る。それが『専売特許条例』だった。「これだっ!」その内容を聞いた瞬間、佐吉は自分がやるべきこと、進むべき道をついに見つけた。これを契機に、自らの知恵により新しいものを創造する発明に一生を捧げようと決意した。

「西洋の文明は機械に基づいており、機械は蒸気機関によって動かされている。蒸気機関は石炭を必要とするが、石炭は高価だ。したがって、これに変わるべき原動力を案出しよう」。そう考えた佐吉は、永久または無限動力の発明に取リ掛かり、いろいろ試行錯誤を重ねるが、うまくいかなかった。
このように、明けても暮れても物思いにふける佐吉であったが、あるとき、村の農家で使われている手機(てばた)に興味を持った。「能率の悪い手機を改良することができれば、きっと人々の役に立てる」。そう考えた佐吉は、大工の仕事もそこそこに納屋にこもった。作っては壊すことを繰り返す佐吉を変わり者扱いする人々もいたが、彼はそんなことには目もくれず発明に没頭した。

1890年(明治23年)、佐吉は、東京・上野で行われた「第三回内国勧業博覧会」に足を運ぶ。そこに並ぶ国内外の最新機械に衝撃を受けた佐吉は、その構造を目に焼き付けようと1ヶ月もの間、連日会場に通い、ただひたすら機構を正しく理解しようとした。

そしてその年の秋、佐吉の最初の発明となる「豊田(とよだ)式木製人力織機」を完成。翌1891年(明治24年)には、はじめての特許も取得した。佐吉は24歳になっていた。

豊田式木製人力織機と
特許証・特許明細書

佐吉が特許を得た「豊田式木製人力織機」は、これまで両手で織っていたものを片手で織れるように改良したもので、織りムラがなく品質は向上し、能率も4~5割向上した。しかし、基本的に人間が手で織る織機であったため、それ以上の能率向上は難しかった。佐吉は、いよいよ本格的に、手で織る織機から動力で織る織機の発明に向かうことになった。

経済的な独立を果たすとともに発明のための研究資金を確保する必要があった。また、発明した織機をまず自分自身で使用することにより、そのできばえを確かめ、自信をもって人に薦めようと考えた。そのため、1892年(明治25年)、佐吉は、自ら発明した豊田式木製人力織機数台の小さな織布工場を現在の東京都台東区千束に開業した。

佐吉の作る布は問屋筋からは好評だったが、工場の経営を行いながら発明に取り組む中で、経営は次第に苦しくなり、開業して1年で工場を閉鎖せざるを得なくなった。工場を閉じて、郷里に帰った佐吉であったが、ほどなくして、豊橋のおじを訪ね、その家に住み込みながら、動力織機の研究を始めた。
発明のための資金を確保するため、1894年(明治27年)、佐吉は、紡いだ糸を織機のたて糸用に効率的に巻きかえる、画期的な豊田式糸繰返(とよだいとくりかえし)機を完成した。

豊田式糸繰返機と
豊田式汽力織機

その後、糸繰返機の製造・販売のために、名古屋に、豊田代理店伊藤商店(豊田商店、後の豊田商会)を設立した。

糸繰返機の販売が軌道に乗る中で、動力織機の発明に一心不乱に取り組み、佐吉は、1896年(明治29年)、日本で最初の動力織機である木鉄混製の豊田(とよだ)式汽力織機(豊田式木鉄混製動力織機)を完成する。開口、杼入(ひい)れ、筬打(おさう)ちを人力から動力に替え、よこ糸が切れたら杼が止まり自動で停止する装置や、布の巻き取り装置などを備え、安価な上に、生産性や品質も大幅に向上した。

豊田式汽力織機をいち早く認めたのは、豊田商店の得意先である石川藤八であった。石川は、「織布事業を始めよう」ともちかけ、佐吉と共同で現在の愛知県半田市に乙川(おっかわ)綿布合資会社を設立した。この織機で織り上げた綿布の品質は評判を呼んだ。佐吉は、織機の動力源として蒸気機関だけでなく、石油発動機も用いた。

乙川綿布合資会社

佐吉のこの動力織機に注目した三井物産合名会社(現、三井物産株式会社 以下「三井物産)は、織機製作会社の設立を提案してきた。1899年(明治32年)、合名会社井桁商会が設立され、佐吉は技師長として動力織機の製作を指導するとともに、発明に専念することになった。しかし、不況のため会社経営が悪化して、十分な研究ができなくなったこともあり、佐吉は井桁商会を離れ、個人経営の豊田商会で発明・研究に没頭した。

佐吉が織機の研究を進めるにつれ、従来の動力織機では木管のよこ糸がなくなるたびに、その補充のため運転を停止しなければならず、このため能率が著しく阻害されていることが明らかになった。そこで佐吉はこの点を改良するため、よこ糸を自動的に補充する装置の開発に心血を注ぎ始めた。

ゆるぎない信念、営業的試験

1903年(明治36年)、機械を止めずによこ糸を自動的に補充する最初の自働杼換(ひがえ)装置を発明し、それを装備した世界初の無停止杼換式自動織機(豊田式鉄製自動織機(T式))を製作した。鐘淵紡績株式会社は、この自働杼換装置をこれまで取り付けたことがない広幅の織機に取り付け、性能試験を行った。しかし、製作と試験を他人任せにしたため、結果は芳しいものではなかった。このときの反省から、「創造的なものは、完全なる営業的試験を行うにあらざれば、発明の真価を世に問うべからず」という考え方が佐吉のゆるぎない信念となった。

さらに、後述する欧米視察時に、タカジアスターゼの発明やアドレナリンの抽出などの世界的な業績で知られる高峰譲吉博士をニューヨークの邸宅に訪ねた際、博士から「発明家たるものは、その発明が実用化されて社会的に有用な成果が得られるまでは決して発明品から離れてはならない。それが発明家の責任である」と激励され、その信念は一層強固なものとなった。

豊田式鉄製自動織機
(T式)

佐吉は、1905年(明治38年)、たて糸の送り出し装置を備えた、木鉄混製の堅牢な豊田式三十八年式織機を、1906年(明治39年)、三十八年式を改良し、能率と織物品質を高めた豊田式三十九年式織機を発明した。

また、1906年(明治39年)、佐吉は自動織機とともに、究極の目標と定めていた動力を空費しない理想的な円運動を用いた環状織機を発明する。それまで織機とは平面運動でありよこ糸の往復運動で布を織るものと考えられていた。それを、杼の動きを回転運動に変え、よこ糸の挿入も打ち込みも静かに間断なく行うといういまだかつてない発明だった。

環状織機

挫折を乗り越えて

1907年(明治40年)、三井物産の勧めにより、東京・大阪・名古屋の有力財界人が資金提供し、豊田商会の工場と従業員を受け継ぐ豊田式織機株式会社(現、豊和工業株式会社)が設立された。佐吉は、常務取締役技師長に就任し、発明・研究を続けた。

しかし、佐吉が信念とする営業的試験は同社では許されず、1909年(明治42年)、自ら試験工場(後の豊田織布菊井工場)を設立した。豊田式織機株式会社の業績が不振に陥ると、佐吉は、発明・研究を行う技師長の立場と、経営をおろそかにできない取締役としての立場に苦悩した。こうしたことから、1910年(明治43年)、佐吉は同社常務取締役を辞任し、その数週間後には、心機一転、欧米視察に旅立った。

まず、米国に向かった佐吉は、西海岸から米国を横断し、東海岸北部の織布工場を見学した。桁違いの規模の工場と実験設備に驚いたが、そこで使われている織機については、欠点も目につき、それほどの感銘を受けなかった。こうして米国各地を視察した後、佐吉は、英国に渡り、マンチェスター地方の織機製造や紡織産業を見学した。この視察を通じて、佐吉は自分が開発した織機の優秀さに自信を深め、気分を一新して帰国の途についた。

発明主義に徹する

欧米視察から帰国した佐吉は、苦心の末、資金調達を行い、1911年(明治44年)、現在の名古屋市西区則武新町(現在のトヨタ産業技術記念館の地)に、自動織機の発明完成の足場を築くために、独立自営の豊田自動織布工場を設立した。

豊田自動織布工場では仕入れた糸の品質が悪かったため性能試験に不都合が多く、自分がめざす自動織機完成のためには良質の紡績糸が必要であると考え、1914年(大正3年)に紡績設備を導入。それに伴い豊田自動紡織工場に改組した。この紡績・織布事業は、第1次世界大戦下の好況にも恵まれ、年を追うごとに拡大した。経営を円滑に行うため、1918年(大正7年)、豊田自動紡織工場を改組し、近親者やごく親しい人びとからの出資による豊田紡織株式会社を設立した。佐吉は取締役社長に就任したが、実質的な経営は、常務取締役に就任した娘婿の豊田利三郎に任せた。

豊田紡織本社事務所

さらなる挑戦

豊田紡織の経営が安定するのを見定めると、1918年(大正7年)、佐吉は単身中国大陸に渡り、上海を中心に紡績業を詳細に調査した。翌1919年(大正8年)、半ば永住の覚悟で、佐吉は、再び上海に渡った。1年かけて工場用地を手に入れ、1920年(大正9年)、建坪約1万坪の大紡織工場が完成した。その後、約1年間佐吉の個人事業として経営されていたが、1921年(大正10年)、改組し、株式会社豊田紡織廠を設立した。佐吉は、ここで、自動織機と環状織機完成に向けた研究に没頭した。

上海での事業展開にあたって、懸念する周囲の人びとに対して、佐吉は「障子を開けてみよ。外は広いぞ」と語ったと伝えられている。

佐吉は、上海と名古屋を往復しながら、長男の豊田喜一郎や部下とともに完全なる自動織機完成への努力を重ねた。自動織機完成のため、自動織機のみを大量に据えつけた、営業試験工場を建設する必要を痛感し、1923年(大正12年)、現在の刈谷市に豊田紡織刈谷試験工場を新設した。そこで、営業的試験が何度も重ねられ、1924年(大正13年)、無停止杼換式豊田自動織機(G型)が完成した。佐吉が織機の発明を決意してから、すでに30年以上の月日が流れていた。

無停止杼換式
豊田自動織機(G型)

G型自動織機は、高速運転中にスピードを落とすことなく杼を交換してよこ糸を自動的に補給する自働杼換装置をはじめ、杼換誘導、よこ糸切断自働停止、たて糸切断自働停止のほか、各種の自働化、保護、安全および衛生などの機構、装置が装着され、生産性や織物品質で世界一の性能を発揮した。当時、世界の繊維機械業界をリードしていた英国のプラット社の技術者が、「マジックルーム(魔法の織機)」と呼んで感嘆したという。

その後も、佐吉の発明への情熱は衰えることなく、終生の課題とした環状織機完成への挑戦を続けた。

豊田自動織機の船出

自動織機が完成した後、1926年(大正15年)11月17日、名古屋市の豊田紡織事務所にて、株式会社豊田自動織機製作所(現、株式会社豊田自動織機)の設立総会が開かれ、翌11月18日に設立登記がなされた。取締役社長には、利三郎が就任し、常務取締役には、喜一郎が就いた。

会社の定款には紡織機の製造・販売とともに「右に関する発明研究をなすこと」が明記され、発明と研究を会社の大きな目的とした。これは、佐吉の体験のなかから生まれた、他に例をみないものであった。

創業期の織機組立工場

製造されたG型自動織機は、日本のみならず、世界で高い評価を得た。世界の繊維機械業界をリードしていた英国のプラット・ブラザーズ社は、G 型自動織機の優秀さに注目し、特許権譲渡を申し入れてきた。
1929年(昭和4年)、同社に「日本・中国・米国を除く国々でG 型自動織機を製作・販売する権利を与える」という契約を締結した。日本人の発明が世界に認められ、外国企業から特許権譲渡を求められたことは、日本の技術史上、特筆される快挙であり、多くの日本人に自信を与えた。

1930年(昭和5年)10月、豊田佐吉が逝去した。発明主義を貫いた63年の生涯であった。精神的支柱であった社祖を偲んで、一周忌には頌徳(しょうとく)碑を建立した。また、亡くなって5年後の命日にあたる1935年(昭和10年)10月、佐吉の精神を日常の心構えとして明文化した豊田綱領が制定され、佐吉の胸像を前に朗読式が行われた。当時、豊田系会社は当社を含めて8社を数え、従業員は1万3,000人を超えており、事業の理念を明確にして全従業員に徹底するものであった。

一、上下一致至誠業務に服し産業報国の実を挙ぐべし
一、研究と創造に心を致し常に時流に先んずべし
一、華美を戒め質実剛健たるべし
一、温情友愛の精神を発揮し家庭的美風を作興すべし
一、神仏を尊崇し報恩感謝の生活を為すべし